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『……おえ』 誰かが名前を呼んでる。懐かしい名前。 もう殆ど記憶の彼方の、私の初生。 もしや空海か。 ひょっとして、もうすべてが終わり、私の魂もそなたの待つ浄土へ来たか。 頭が重い。気だるいのはいつものことだ。この肉体が重いのか、眠りから醒めるのを、魂レベルで拒否しているのか。 だがその名を呼ぶものよ。 「誰だ」 声を絞りだして手を伸ばす。 すぐ傍であわてたような気配がして、頭を枕で押さえつけられた。 「おう、じゃ、後でな。 こっちでもなんか動きがあったら連絡すっから。 ……ああ?お前に言われたかねーな、どんな女連れ込もうが関係ねーだろーが。 どうせ数じゃお前には負けてっからよ」 ガチャン、と電話を切り、頭の上で千秋が大げさに声を上げている。 「アホかお前、直江と電話してんだから黙ってろ」 「ああ、直江と言ったのか」 高坂はしれっと言いながら、まだぼんやりする頭をもう一度枕に乗せて寝返りを打ち、うつ伏せで目を瞑る。 「いい加減起きろよ、昼前だぜ」 「あいにく疲れているのでな」 「あいにくじゃねえよ、セミダブルとはいえ狭えんだよ」 言いながらも、千秋はもう一度布団に潜り込んできた。 「なんだ、夜叉衆に動きがあったんじゃないのか」 「………」 上半身を起こし、千秋ははずしたメガネをサイドボードに置きながら、怪訝そうに高坂の後ろ頭を見下ろし、冷えた声で訊く。 「お前、なにか知ってんのか」 「なにを?どれを?」 人を食ったような声が、舌ったらずで甘ったるいニュアンスを含み、この男独特の鋭い色気が緩和され、いっそかわいらしいほどだ。 千秋は思わず噴き出して、がしがしと高坂の頭をなでる。 「やめろ、髪が痛む」 高坂が鼻を鳴らしたが、 「ちょっとくらいは平気そうだな」 千秋は言いながら手をすべり降ろし、その細い首筋を掴んだ。 「あ、そこ」 高坂が声を上げる。ドキッとして手を止めた千秋だったが、 「いい感じに揉んでくれ」 続いた言葉にガックリ首を落とし、 「なんで俺が仇敵の首を揉まなあかんねん」 思わず大阪弁で叫んだ。 だが乱れた髪の隙間、掬い上げるように見つめる高坂の流し目に負けて、ヤケになりながらも首筋を揉んでやる。 「うつ伏せで寝るから凝るんじゃねーの」 「いろいろ忙しいのだ」 言いながら、高坂は気持ちよさそうに目を閉じた。 「あーもう、なんだこいつ」 嘆息しながら、千秋はマッサージをやめて寝転んだ。 すぐ横で、高坂がすでに寝息に近い呼吸をしている。その横顔を見つめながら、千秋は息を呑んだ。 相変わらずの美貌。だがこの近さで見る限り、不遜でクールな印象は消え、なんだか孤独な少年を見ているような気がして、いつも思わず抱きしめてしまう。 今日も延びてきた腕に、高坂はめんどくさそうに鼻を鳴らすが、抗いはしない。 逆に、そうされていることを望むかのように、体の力を抜く。 その無防備さがときどき怖くなるほどに。 「お前さあ」 「なんだ」 高坂が、半ば寝言のように口の中でぼそぼそと応える。この男の操る刃物のような言葉の角はとれ、まるで油断しきっている。 「ここで悠長に寝てる間に、ムリヤリ浄化されるかも、とか思わないの」 千秋の腕枕に応えて首を上げながら、高坂は少しだけ目をあけた。 「さあ、できるものならやっていただきたいものだ」 目を閉じて、赤い唇に微笑が浮かぶ。 千秋は、その顔が時々仏に似ていると思う。 そっと口付けしても、抗わぬ赤い唇。 「戦ってるときはホントふてぶてしいくせに」 「聞きしに勝るお人よしだな、さっさと寝首をかけばいいものを」 言いながら、高坂は寝返りをうとうとしたが、千秋は背中から抱きすくめて、髪に埋めた口からそっと吐息を漏らす。 「して欲しいの?」 千秋の問いに、醒めた答え。 「どっちをだ」 「どっちって」 絶句した千秋の小指を、高坂はそっと噛む。ビリッと電気が走ったように、千秋の背筋に熱いものが駆け上がる。 「私を倒すことか、それとも私を抱くことか」 「かわいくねえ」 千秋が首筋に噛み付く。高坂はククッと喉で哂った。 「さすが安田の、三国一のお人よしだ」 「どういう意味だよ」 言いながら、千秋の口づけがそっと体を下っていく。 身をめぐる快感に身を任せながら、高坂はそっと千秋の髪をなでた。 お前といると肉の意味を思い出す。いつもこうして。 もちろん高坂として信玄の閨に入ることもあるし、特にこの新井公彦の体になってからは、肉体も武器として使用することが多い。 だが長く生きすぎたのか、己からそういう生々しい感情に翻弄されることもなくなってきた。 換生を繰り返し、そうやって肉体を意識させられるたび、魂と肉体が乖離していることを意識させられる。 しかし、魂はそうであろうと、肉体は熱を求めている。それを思い出す瞬間だ。 (肉ある身よ) 今しばらくは寄り添うがいい。 まだ四百年しか生きぬ魂も、いっぱしに孤独を啜るか。こうして傷を舐めあうか。 そんなことを思う自分に、高坂はふっと笑いを漏らした。 「なに哂ってやがる」 千秋の愛撫が激しさを増す。 吐息を漏らし、高坂は考えることをやめ、熱を帯びる互いの体温だけを感じることにした。 |