Memory Of The Pain


 風が吹いている。
 匂いはもう秋の終わりに近い。
 肌を刺す寒さは、日が傾くにつれて増している。
「おまえ、冬好きそうだよな」
 だるそうにハンドルに肘を乗せた千秋が言う。
 車の外にいるのにその声が聞こえるのは、
 運転席側のドアにもたれて立っているから。
 そして閉められないよう、
 全開にした窓に指を乗せているから。
 伸びをしてシートによりかかった千秋は、寒そうに肩をすぼめた。
「東京のつもりで来ちまったら、ここ、冬じゃねえかよ。
 いい加減乗りやがれ。それか、窓閉めろ」
「山の中だからな」
 しゃあしゃあと言いながら、
 高坂は山の端にかかる夕日を一瞬だけ睨んで、
 その残像を瞼に仕舞う。
「甲府に行かないで、なんでここなの?」
 千秋の質問に、高坂は応えない。
 応える必要もない、その地はいつかあの人を見取った地だ。
 あの日はすべてが重かった。体も、心も捨てたいほどに。
(それに比べれば)
 いまはまだ。そう、まだ涙も出ないから。

「ねえ、なんであんな山んなか行くわけ?
 リフレッシュ?」
「そんなものだ」
 寒さで白い頬が赤みを増している。
 そのせいか、瞼を閉じている横顔に、
 東京を発つころよりもすこし生気が増している気がした。
 千秋は肩をすくめた。
「おまえさんがマイナスイオン浴びたところで、
 世の中のためになるとも思えねえけどな」
「さあ、どうかな」
 高坂は抑揚のない声で応える。

 思い出せ、そして奮い立て。
 針のようなあの記憶で倒れそうな体を刺して、
 重い足をふたたび明日に向かわせるように。
(遠くない)
 それだけを己に言い聞かせる。
 記憶の中だけで生きられる日々、
 いつかそのときが来たら、
 思い出すのはあの寒い春の夜じゃなく、
 温かな冬、明かりの点ったあの高台の館であるといい。

 赤信号で停止して、ふと助手席に目を遣って、
「……あ、寝っちゃったの」
 千秋はがっくりとうなだれた。
 呼び出されてアッシーにされて、
 助手席で眠られるほど腹立たしいことがあろうか。
 一瞬蹴りだそうかとも思ったけれど、
 ドアにもたれて眠る顔は、やっぱりどうしようもなく疲れていて、
 千秋は仕方なく後部座席の自分の上着に黙って手を伸ばしていた。


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