さよならいつか


 「私は景虎なんぞに、大して興味はなかったんだ」
 高坂の赤い唇が、闇に浮き上がっている。
 顔が見えない。
 白い首筋と、トレンチコートだけがぼんやり月光に浮き上がっている。

(夢だったのか)
 千秋はぼんやりした頭を振りながら、ベッドの上に起き上がった。
 千秋、というか。正しくは安田長秀だ。
 かつての宿体、千秋修平の体は滅び、今はもう宿る体を変えていたが、
 なんとなく惰性で千秋の部屋を使っている。
 今の体はどこか千秋修平に似ていて、
 感覚としては、千秋修平のままのような気がしている。
 だけど違うのは、戦いで負った傷がどこにもないこと。まっさらな体。
(体がお前さんを覚えてないよ)
 見下ろせば無骨な指。『千秋』とは爪の形も違う。
 長秀はため息をつく。カーテン越しに、午後近い日差しがまぶしい。

 春日山で直江と別れて数日、
 引きこもりみたいな生活を続けていて気分がむしゃくしゃしていた。
 おりしも東京に引き返してから、雨が続いたこともある。
 というか、天気のせいにでもしないと、気分を切り替えるには勢いが足りなかった。
「あいつだってもう目的もないから、成仏しちまったんだろうな」
 一人ごちて、余計にいまの自分を知った。ブルーだ。
 床に降り立ち、長秀は首を振りながらシャワーを浴びるために浴室に向かう。
 途中、よろけて椅子の背を掴んだ。
 あれだけのひどい戦いの後だ、気だるさは気分だけの問題でもなさそうだった。
 高坂……いや、新井公彦の体も多分にもれず、相当なダメージを受け、
 戦いの終了直後から危篤状態にあった。
 綾子の魂ももはや疲れきり、目を覚ますことも少ないという。
 だが、まだ戦いは続いている。
 直江は数日中に連絡をよこすと言っていたから、
 こうやってだらだらできる今のうちに、
 一度綾子に会いに行ってやろうと思った。

 病院の受付で尋ねると、綾子の容態はここ何日か安定していて、
 集中治療室からはなんとか出ることができ、個室に移動されたと聞かされた。
 そうして教わった部屋をめざして階段を上り、
 窓の外、新緑がまぶしいまでに陽光を照り返す景色に目を細めながら、
 病室のドアを開けると。
 窓際に置かれたベッド、
 あの白い顔が、記憶と同じように長いまつげを閉じて、規則正しい寝息を立てている。
 思わず長秀はどきりとし、病室の入り口に立ち止まった。
 と、気配に気づき、瞼がぴくりと動いた。
 幾度か瞬きめいた動きをしたあと、黒い瞳がぼんやりと長秀の姿を捉え、
 唇が笑いの形にゆがむ。
 でもそれは決して長秀の知っている怜悧な高坂の笑みではなく、
 やわらかくて包容力のある柿崎晴家の微笑みだった。
「わざわざ来てくれたのね」
 かすれた声がセクシーといえばセクシーだったが、女言葉の高坂はぞっとしない。
 長秀は思わず肩をすくめて、  それでやっと、日常を腕の中に取り戻す手ごたえを掴んだ。
「ねーさん、調子どう?」
 よく知っている美貌の男に向かって、綾子との会話をするのは少しだけ抵抗がある。
 綾子は包帯で巻かれた首をちょっとかしげて、
「まあね、ぼちぼちかな。この体、もともとかなり痛んでたみたいなのよ。
 ……まあ、いろいろ高坂……あ、五百枝王?になるのかな?
 その記憶も残ってて、なんだか気分はよくないわ」
「体の具合っちゅうよりは居心地の問題か」
「あいつの素性なんて知らなけりゃ単純に憎んでられたんだけど、
 最期の最期にあれはないと思うのよねえ」
 晴家は眉をしかめる。その表情はちょっとだけ高坂らしかった。
「弥勒の時空縫合って、ほんとにあんな辛いんだってこととかさ。
 あたしたちの知ってる高坂と同一人物だなんて考えられないくらい、
 五百枝サンってのはまじめだったのね。
 信長倒すためだけに、……お人よしだったのかも。
 顔も知らない未来の人のために」
「まあ、位を捨てて叔父サンの供養に一生をささげるような人だったんだろ」
 よくよく苦労人だったんだろうよ、と言う長秀に、晴家はおかしそうに笑った。
「ずいぶん理解してるみたいじゃない」
「四百年も付き合ってりゃね」
「なんか、長秀と直江のことはやたら覚えてるみたいよ。
 直江には純粋に興味があったみたいだけど」
「え、そんなのも分かるもんなの?」
 一瞬ぎょっとした長秀である。あんなことやこんなことを覚えてたらどうしよう。
 己も成体へ換生するが、
 そのときは自発的に宿体の記憶をなるたけ探らないようにしているから、
 そのあたりのさじ加減は未知の領域である。
「だって、ずっと眠ってるとさ、夢を見るのよ。
 伊予に流されたり、時空縫合から助けられたり、
 そっからはじまってたっぷり千二百年分よ。
 ……ある種高坂の嫌がらせかもね、気持ちまで思い出してさ」
 心なしか綾子の目が潤んでいるように見えて、あわてて長秀は言葉をさえぎった。
「ま、まあ落ち着けよ。
 そりゃおれらの三倍も生きてりゃ、おれらの三倍ぐらいはいろいろあるんだろうよ」
「……どんどん失くしてくのよ」
 綾子の声のトーンが急に下がった。
「は?」
「感情をどんどん失くすの。
 人への愛情とか信頼とか、信じるんだけど裏切られて、
 そのうちコップの水がなくなるみたいに……
 揺れるものがなにもなくなっていくのが分かるの。
 それを自覚していて、自分でも怖いのよ」
 唇をかみ締める綾子の悲痛な表情が、高坂に重なった。
 長秀は思わず息を呑む。
 千二百年の孤独。時をわたる旅人よ。

 静寂を破り、綾子が口を開いた。
「……あたしはまだそうはならないわ」
 綾子は穏やかな微笑を浮かべていた。
「探してみせる。
 記憶がなくなっても、
 あの人を愛したあたしの気持ちを、
 あたしのこころは覚えているから」
 千秋は唇を噛み締める。
「浄化、……するつもりか」
「転生って言ってよ、夢がないわね」
 綾子はほがらかに笑う。

 ことば少なな会話、たぶん会うのは最後なのに心穏やかな不思議な時間。
 面会時間終了のアナウンスが小さく流れ、長秀はスツールから腰を上げた。
「また来るよ。お大事に」
「ありがと、またね」
 またいつか。
 少しだけ手を挙げ、綾子は瞼を閉じる。
 長秀は少しだけその横顔を眺めて、そっと踵を返した。

「肉の体に意味はない」
 高坂がつぶやく。病院で眠っているはずの、新井公彦の顔をして。
 長秀がはっとして顔を上げると、逆光でよく見えないが、
 無表情な顔で腕組みした高坂がベランダに立っている。
「体になど意味はない。
 魂が腐らぬよう、バランスを保つために必要なだけだ」
 朽ち果てそうな長い時間、弥勒の時空縫合の中を魂だけでさまよったくせに。
 強がり言うな、といいかけたとき。高坂は不意に微笑んだ。
「直江はおもしろい奴だ。
 愛欲に素直に、肉ある体の真の意味を一番知っていた。
 景虎などより、ずっと生きる意味を」
 じゃあどうなんだ。お前はどうなんだ。
 千二百年の永きにわたり、換生を繰り返し。
「私は人が嫌いじゃないんだ」
 むしろ羨ましいほどで。
 たった一度きりでいい、あの記憶も、この目的も忘れ、ただの人になれたならば。
「でも、肉には肉の欲がつく。
 久しぶりに思い出した」
 千秋ははっとした。泣いているのか。高坂?
「長秀、次に会うのはどこであろうな。
 神も仏もいざ知らぬ、時空の彼方で会うことがあろうか。
 貴様に、直江に、景虎に」
 不意に胸を突き上げる孤独感に、長秀は息をするのが苦しくなった。
 逝ってしまうのか。逝くつもりなのか?
 だが不意にひらめく、高坂の怜悧な微笑。何かをたくらむ魔性の微笑み。
「死に方など忘れてしまった。おとなしく去ねるかどうか、私にはまだわからん。
 だがもし次の生で、この記憶がまだあるなら」
 会いに来てやってもいいぞ。

 ニヤリと笑う高坂が、コートの裾を翻す。
 待て、と腕を伸ばして――

 ドサリ、とベッドから落っこちた。
「痛っっっっ……」
 強かに打ったからだをさすりながら、
 長秀はおまけのように落ちてきた時計を確認した。
 午前8時10分。
 いつもの朝。
 と、電話が鳴って、留守電に切り替わる。
 ぼうっとした頭に、録音を吹き込む冷静な直江の声が聞こえてきた。
『さきほど晴家が浄化した。
 新井公彦の体は、親族に連絡をつけて引き取ってもらおうと思う。
 暗示をかけてほしいんだが、来れるか。連絡を待っている』

 ああ、逝っちゃったんだ。

 長秀はぼんやり座り込み、はっとして自分の頬に触れた。
 弔いの涙なんか、いつぶりに流すだろう?



◆すごく書きたくなって書いた一作め。 <モドル>

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