785(延暦4)年10月 | 長岡京で藤原種継(737(天平9〜)が暗殺される。 |
785(延暦4)年11月 | 藤原種継暗殺の首謀者として早良親王が乙訓寺に幽閉。 右兵衛(※)監督だった五百枝王もこれに連座したとして 官位を剥奪され、伊予に流される。 (この年、早良親王は冤罪を苦に 淡路に送られる途中、ハンストして亡くなる。 だが遺骸は淡路島へ送られ、そこで荼毘に伏された。) ********************************************* (※)兵衛府という、律令制下において宮城の守衛に当たった宮司の一つ。 右兵衛府と左兵衛府があった。 府の職務は、兵衛を統率して宮城の閤門(内門)の守衛、 出入者の監視、宮内の巡検、行幸時の天皇の護衛にあたることなどであり、 天皇の居所に近い重要な区域の警衛を担当した。督はその最高責任者。 |
798(延暦17)年 | 早良親王の遺骨を大和八島陵に改葬時、 |
805(延暦24)年3月 | 桓武天皇に呼び戻され、遺骸迎えの使者となった。 (この年、最澄が唐から帰ってきて天皇の病気平癒の祈祷をしている。) ちなみに、 それまでの遺骸迎えの使者は淡路に向かう途中ことごとく溺れたが、 五百枝王が請け負ってようやく成功。 これによって桓武天皇の信頼を得ることとなる。 |
806(延暦25)年3月 | 病床の桓武の命によって復位。(桓武天皇は同年4/9に70歳で没)
『二世王』を約束されたが、その位を降りて臣下となり、 春原朝臣(はるはらのあそみ)の姓を賜った。 (その子孫が上御霊神社の歴代宮司に) |
806(大同1年)10月 | 空海が唐より帰国。 |
ミラージュ設定では、この年、熊野を早良率いる怨霊軍が占拠。 坂上田村麻呂と共に熊野に赴き、布都御魂でそれをなだめたが、 | |
811(弘仁2)年6月 | その戦いにより 坂上田村麻呂=弥勒の『本性』がウッカリ目覚めてしまい、 田村麻呂は布都御魂を奪ってアマテラスを食おうと 伊勢神宮を襲撃する。 これを止めるため、 五百枝王は神宮の護剣・玉纏御太刀で田村麻呂を刺す。 |
だが、絶命間近で弥勒(=田村麻呂)が時空縫合をかけたため、 生きながら意識が戻らず数十年。 空海が時空縫合を見破って助け出すまで、 一人で未来を彷徨っていた。 (そのとき見た未来を変えることが、彼の換生の動機となった。) | |
829(天長6)年12月 | 70歳で死去。参議中務卿美濃守正三位。 |
万葉集の編纂・成立に深く関与したという説もあるそうで、 大判家持が同じく藤原種継暗殺事件に巻き込まれて 失脚したりしたこともあるせいか、 五百枝王の家から家持の歌集が見つかったという説もあるとか。 その説を唱える方(大森 亮尚氏)は、 皇位継続争いに絡む怨霊の祟り供養がひいては影の文化となり、 「怨霊と鎮魂の文化の歌集としての万葉集」が大成されたのでは と仰っておられ、印象的だったので蛇足ながらメモ。 |
1527(大永7)年 | 甲斐石和の豪農・春日大隅の子として生まれる。 |
1543(天文10?)年 |
16歳で武田信玄の近習に取り立てられて寵童となり、 使番を経て |
1552(天文21)年 |
26歳で士大将となり百騎の将、 ついで弾正忠の官途名を受けて百五十騎の将となる。 |
1555(天文24)年 | 信濃小諸城城代となったが、 |
1556(永禄元)年 |
海津城(長野市松代町)が築かれるとその城代となり、 川中島地方の諸士を統率して越後の上杉謙信にあたった。 |
1558(永禄初)年 |
北信濃の名族香坂(高坂)氏の名跡を継ぎ、香坂弾正忠と名乗ったが、 やがて春日姓に復した。 |
1562(永禄4)年 |
第四回川中島の戦に活躍、その後も越後の動静を監視すると共に、 北信濃の経営に努めた。 |
1576(天正4)年4月15日 |
跡部勝資・同勝忠と共に塗籠を開いて遺骸を厚い棺に移し、 翌16日の葬儀の際は、家臣たちが烏帽子・色衣で参列する中を 「就中春日弾正忠別而往年之因不浅付而、頻悃望申、 剃髪・染衣之姿御供」と『御宿監物書状案』にみえる。 |
1578(天正6)年5月7日 |
没。享年52歳。 明徳寺(長野県松代町)に葬られる。 法号は憲徳院玄庵道忠居士。 |
そのほか、メモ |
長男・源五郎(昌澄)は長篠の戦いで戦死し、 次子はまた源五郎(信達)を称しあとを継いだ。 |