忘却の詩篇三十八


 体中が痛んで声も出ない。
 とっさに護身波でワンクッション置いたものの、岩場に叩きつけられて暫く息ができなかった。
 頭上で木々が揺れている。
 枝のシルエットの合間、雲に月の光がうすぼんやりと映っているのが見えたが、光はさえぎられて届かない。
 不意に、遠くからかさかさと落ち葉を踏む音がしはじめ、直江はそちらへ顔を向けようとして骨の痛みに阻まれた。
 生き残りの怨霊でもいるのだろうか。
 ここら一帯は古戦場のはずれ、落ち武者たちの残念ならそこここにあるだろう。
 だが、現れたのは、闇の中で輝くように見える白いトレンチコートの小柄な青年、……いや、少年と呼んでもいいほどの年頃の男だった。
 直江は気持ちだけで舌打ちする。
 トドメをさされるならそれもいいが、相手がこいつというのは釈然としない。
 その男、高坂弾正は、直江の気持ちを知ってか知らずか、悠然と近くまで歩み寄ると、大の字になって横たわる直江をしゃがみこんで見下ろした。
 そして、名工の作る雛人形のような、端正な顔立ちに上品な笑みを浮かべる。
「無様だな、直江」
「……」
 直江は唇を引き結ぶ。
 高坂は笑みを浮かべたまま、そのすぐ横に座り込み、足元の落ち葉をそっとつまんで、直江の鼻に乗せた。
「……なにをする」
 ぎょっとした直江に向かい、高坂は邪気のない笑いを見せる。
「その顔、おもしろいな。
 それに免じて助けて進ぜよう」

 車を止めてきた林道までは、まだ少し距離があった。
 高坂の治癒の呪で体は動くようになったが、足をひどくやられたため、背を曲げて二十センチ近く背の低い高坂の肩を借りる。
 華奢な体格の高坂にはかなりの重荷だろうが、高坂は平然と直江を支えながら、足元の悪い山道を歩いている。
 だが、途中、小さな水の流れが獣道をまたいでいるところで、いったん休憩をした。
 ざわざわ、と夜の森に風が走る。
 雲から満ちるにはまだ早い月が顔を出し、はじめて直江の血まみれの顔と、涼しげな高坂の顔が光の下に明らかになった。
 ふ、と高坂が笑みを浮かべる。
「貴様、また景虎を呼んだな」
 直江は体の痛みを堪えながら息を吸い、呻くように声を押し出す。
「何故分かった」
「思念波を受け取ったまでだ。
 お前の声は煩すぎる」
 高坂は、朱でも塗ったかのように赤い唇を吊り上げて笑った。
「狂ったかと思って様子を見に来てやったのよ」
「余計なお世話だ」
 直江は言葉を吐き捨てた。
「おまえに分かってたまるか」
「分かりたくもない」
 高坂は鼻を鳴らす。
「まあせいぜい呼び続けるがいい」
 言いながら、その白い手を差し出す。
「とっとと撤収だ、後ろから役にもたたん亡霊どもがお前を探す声がしている」
 直江ははっとして耳を澄ませた。
 確かに聞こえる。
 遠くにだが、静寂を乱したものへの怒りの叫び。
 徐々に数を増し、森の奥から近づいてきている。
 月がまた雲に隠れた。
「ここは土地の気も悪い、厄介なものだな」
 高坂は独り言のように呟くと、再び直江に肩を貸して歩き出した。

 なんとか林道に止めた車にたどり着き、直江を車に押し込むと、高坂は身を翻した。
 直江を支えて歩き詰めに歩き、さすがに肩で息をしているが、亡霊たちの声がすぐそこに迫っている。
 『力』を手のひらに貯めながら、肩越しに振り返って、
「直江、これは一つ貸しにしておいてやる」
「釈然としないな」
「あの吼えるだけの役たたずどもに骨までしゃぶられたいか」
 高坂は艶然と微笑んだ。
「いいんだぞ、ここで捨てていっても」
 直江は奥歯を噛み締めた。
 高坂は憎たらしいが、ここまできて、普段なら片手で倒せるほどの亡霊どもに食われるのはおもしろくはない。
 その表情を意地悪く見つめたあと、振り向きざま、高坂は『力』を一閃させた。
 亡霊たちが横凪にはじけ飛ぶ。
 あとには森の木々を揺らす風の音だけが残った。
「また明日の夜はうろうろするだろうが、今日のところはこれでいいだろう」
 ふん、と鼻を鳴らし、高坂はポケットに手を突っ込んだ。
「運転はできそうなのか、直江」
「……するさ」
 だが、やられたのは右足だ。
 動かない足を手で持ち上げているさまを見咎め、高坂は眉を寄せた。
「代われ、事故で宿体を失いたくなければな」


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