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喉の調子がおかしいな、とは思っていた。 でも朝、目覚めた瞬間に悟った、今日は起きられない。 夜に直江と約束もしていたし、綾子に電話しないといけない用事もある。だが腫れあがった喉は息をするだけでもつらくて、 (だめだこれは……) 天井に藍染みたいな渦巻き模様がゆらゆら浮かぶのを目を閉じて遮断して、千秋はもう一度枕に頭を横たえた。 布団の中がカッカしている。自分の熱がこもっているのだ。 暑い。暑いのに、……体のなか、骨のあたりが寒い。 (喉かわいた) でも冷蔵庫までの道のりが、十キロくらい遠く思える。 カラカラの喉は時を追うごとにさらに痛みを増して、 (扁桃腺か) 燃えるように熱い喉に手の甲をあてて思う。 こんなときに限って薬を切らしている。 先日、こほこほ言いかけていた高耶に余っていた風邪薬をやってしまったのだ。 (あいつから菌貰ったんじゃねえだろうな) だったら一発殴りたい。 高耶が同じ状況だったら、直江が逐一面倒見るに違いないが、 対して、自分はこのコンクリートの箱に一人きり……理不尽極まりない。 (氷、食べてーかも) 喉を冷やすだけで、だいぶん楽になるはずだ。 わかってはいるけれど、体は泥の人形のように重たい。 千秋はもう一度まぶたを閉じた。 額を流れる汗を拭く気力もなかった。 いろんな幻聴が聞こえる。幻覚も目の前で渦をまく。 戦場の馬のいななきと蹄の音。 戦まえのときの声。 たいまつのはぜる音。 生まれる前に聞く母の心音。 誰かが歌うきれいな子守唄。 ドアの開く音。 電車の警笛。 万華鏡みたいな極彩色の、千代紙の模様。 絹糸みたいにきれいな黒い髪の、さらさら流れるさま。 いきなり額に冷たい感触がして、千秋はぎょっとして目をあけた。 心臓に悪いくらい、整った顔をした男が、至近距離から顔を覗きこんでいる。 こーさか、と言いたかったが、悲鳴をあげたくなるくらい喉がきしんで、声にならなかった。 「夏にしか風邪をひかないタイプじゃないのか」 つまらなさそうに言いながら、高坂が白魚のような指でそっと千秋の汗をぬぐう。 その感触があまりにも冷たくて気持ちよくて、千秋は思わず目を閉じた。 その心地よさのなかに、永遠にも思える長い時間を感じる。 高坂はくちびるをへの字に曲げて、 「口を開けろ」 無理やりあごをつかみ、乱暴に千秋の口に体温計をつっこんだ。 カラカラの口に体温計が張り付く。 (痛えっつうの) 朦朧とした頭で思った瞬間、ぴぴっと体温計が電子音を鳴らした。時間の感覚がおかしいようだ。 短いが長い、長いが短い、みたいな。 高坂が戻ってきて、優雅なしぐさで体温計を抜き取り、 「39,2」 つまらなさそうな声でそう宣言した。 「死にはしないな」 語尾に含み笑い。ちょっと待て。 高坂は逆の手のひらに隠していたものを、千秋の唇に押し付けた。 口の中に滑り込む、ひんやりつめたい感触。求めていたものだ。 「あ」 はじめてひとごこちついた。 ちいさな氷は、千秋の熱を吸ってたちまち水に変わり、かわいた粘膜に吸収されていく。 高坂がまた背中を向けて去っていった。 足音が遠ざかり、玄関のドアがパタン、と音をたてて閉まる。 (なんだ、帰るのかよ) 落胆した千秋の口は、ふたたびあの氷の感触をもとめて、その記憶を反芻していた。 |