電気の消えたロビーを横切り、電源の抜かれた古めかしいゲーム機の脇を通ってエレベーターに乗る。
 最上階の廊下もまた、足元を照らす小さな豆球と、ぼんやりと光る非常出口の緑のライトだけしか光源はなく、なんとなく薄気味悪い。
 だが突き当たりの男風呂からは薄明かりが漏れていて、引き戸を開けるとスリッパが一足だけ揃えられており、先客がいることが伺えた。
(運悪いな)
 でもまあ、二人でも貸切みたいなものだし。
 千秋は思いながら脱衣所の隅で服を脱ぐと、遠慮がちに風呂の戸を開けた。
 思いがけず広い風呂場のなかは、ふもとに向かって大きくとられた窓のせいか、旅館全体に漂う陰気な感じとはがらりと変わった明るさがあった。
もうもうとけぶる湯煙が千秋の体をなでてゆき、湯の豊かさを想像させる。湯煙のせいで先客は見えなかった。
 千秋は手近なシャワーで体を洗うのもそこそこに、風呂に飛び込んで体を温めた。温泉の成分が体に溜まった疲れを溶かしだしている気がする。ふちに頭をもたせかけ、深く漬かろうとしたそのとき、湯気がゆれて、先客が湯船を出ようと近づいてきて。
(あ)
 一瞬、間違えて女湯に入ったかと思った。
 湯気の向こうに現れた抜けるみたいに白い肌と、胸に落ちかかる長い黒い髪、火照った白いほお、だが体つきは華奢とはいえ男のもので、たぶんそう錯覚させたのはその色気だ。
 が、次の瞬間には胸の高鳴りも冷や汗にとってかわった。
「こうさか」
 驚愕をそのまま映した千秋の声に、先客の整った顔が皮肉げにゆがんだ。
「これはこれは、上杉の」
 もう一度ざぶんと湯につかりなおし、泳ぐように湯を横切って、高坂が千秋の隣に腰掛ける。
「台風のさなか、悠長に湯治ですかな」
「お前に言われたかねーよ」
(あー、運悪ぃ……)
 うんざりしながら、千秋は湯船のふちに頭を持たせかけて仰のいた。
 それを横目に、
「まあ、事情は似たり寄ったりだろうから、いまは停戦としておこう」
 高坂は、湯でさらに赤みを増した唇に妖艶な笑みを刷き、
 その横顔に、千秋はうっと言葉に詰まる。
「……おまえ、酒はいってるだろ」
「安田殿ほどではないにしろ、この雨では酒か風呂くらいしか楽しみはなかろう」
 高坂は濡れたような目元で笑う。
 千秋は舌打ちしたい気持ちになった。
 おのれが若干酒くさいのは承知の上だが、問題なのは酒が入れば色気を増すこの魔性の男である。
「……おまえ、一人で泊まってるわけ?」
 千秋の質問になにを気取ったか、高坂はしばし千秋の顔をまじまじ見たあと、
「武田のものと部屋を取っているが、貴様らとは面識のないやつばかりだ」
 素直にそう応えた。
「ま、ここでなんかやらかすにも気分が盛り上がらねえからな。
 おまえさんの言うとおり、休戦協定といくか」
「大将の許可はなくていいのか?」
「えーと」
 千秋は言いよどんだが、いま泥酔して寝てるなんて、あんまり言わないほうがいいに決まってる。
「まあ、狂犬の首だけは押さえておいて貰おうか。
 ことを構えればこちらが優勢だということを忘れないでいただこう」
「なに、武田は団体さんなの?」
 千秋の言葉に、高坂は答えず立ち上がった。
「またあとで会おう」
 ひたひたと足音が遠ざかる。
 千秋は振り返っていじわるな口のひとつも叩いてやろうかと思ったが、面倒なのでやめた。

 窓を叩く雨音と、ごうごうと唸る山鳴りがきつくなって、台風の本格接近が知れた。







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