横断歩道の幅いっぱいに広がった群集がいっせいに動いた。信号は青。
 夕暮れに染まる人並みに埋没して歩く。いつの時代も。
 と、誰かが前に立ちはだかった。黒いコートの裾が揺れる。

 その顔を見上げれば。勝ち誇るように笑う顔は、額に赤い種をもつ弥勒の宿体だった。

「おまえにちょっと手伝ってもらいたいことがある。
 高耶の妹を助けたいんだ」
 高坂は黙って立ち止まると、まじまじと譲を観察した。
(今は『成田譲』だな)
 だが、いままで喰った人格がいつどのように出るかは分からない。
「何なりと、仰せの通りに」
「ホント言えば、邪魔するヤツは喰っちまえばいいんだけどさ」
 サラリという譲の口調があまりにも自然で、高坂はかすかに眉をしかめた。
 譲は弥勒として覚醒はしたものの、目立った暴走はしていない。
 でも一旦タガが外れれば大変なことになるに違いない。
 成田譲は一見それをバランスよく制しているが、それも今だけのこと。
 とりあえず、肩を並べて人気のない公園へ移動した。
 譲はしじゅう険しい顔をしている。
 そもそも高坂が譲に信玄を憑依させたことが、すべての発端ではあった。
 しかし今、あのころの面影だけをそのままに、彼を取り巻く雰囲気は明らかに危険なものに変化している。
 高坂は人知れず唇を曲げて笑みの形を作る。
 弥勒よ、わが望みのままに。
 譲が公園の突き当たり、枯れた噴水の前で振り返った。
「こないだのTV報道のおかげで、松本の高耶ん家のまわりは連日報道陣が周りを囲んでる。
 それに気づかれないように、高耶の妹……美弥ちゃんをなんとか連れ出したいんだ」
「結界と暗示でなんとかなりましょう。
 武田のものを動かします」
「おまえも立ち会える?」
「仰せのままに」
 高坂は頭を垂れる。
「おまえを信じて大丈夫?」
 譲の目がらんらんと輝きはじめた。オーラに危険な香りが満ち満ちている。
 高坂は心が冷えるのを感じたが、そっと地面に片膝をつき、静かに言葉を継いだ。
「私は強き力(ちから)の信者です。
 力を使うものは偽るかもしれませんが、力そのものに偽りはない」
「お前はまこと嘘の吐けん男だ」
 突然、信玄の口調で譲が言う。笑い方さえそっくりに。
「お褒めにあずかりまして」
 高坂は微笑んでみせた。
 またくるりと譲の表情が変わる。信玄を『飲み込んだ』のだ。
 苦虫を噛み潰したような顔で、譲は高坂を見下ろした。
「おまえ、ほんとヤな奴だな」
 高坂は黙って平伏したふりをしながら、心のうちで呟く。
 こういう時こそ言うべき台詞はさっき言ってしまった。
『お褒めにあずかりまして』。
 頭ではそう思うが、ひしひしと伝わる危険な気配に汗が背を伝う。
「でも、お前は不味そうだ」
 譲は吐き捨てるようにことばを継ぐ。
「寒気がするよ。
 信玄のこと、本気で尊敬してたんじゃないのか」
 高坂は唇を引き結んで応えない。
(人間くさいお方だった、真っ直ぐで嫌いではなかった)
 だからこそ、生涯をかけて仕えたのだ。
 戦国最強と呼ばれた武田の騎馬隊が、織田を討つことができたなら。
 そんな願いもあった。
 だがそれは戦国武将『高坂弾正昌信』のもの。
 いつの世も、私は私だ。
「反吐が出るよ」
 いらいらしたように、譲は高坂の顎に指をかけ、グイと上を向かせた。
 高坂の顔にはなにも表情はなく、闇色の目はただ深い淵のように譲を見つめている。
「お前が上杉の夜叉衆にこだわるのは、お前が捨てたものを全部持っているからだろ」
 高坂は、黒い目で静かに譲を見上げた。
「興味深くはありますな。
 何百年生きようが、人は人のままであることを思いださせる。
 直江などその典型ですな」
 その言葉に、譲は険しい目つきになって、ぎりりと奥歯を鳴らした。
 直江!すべての元凶だ。
 高耶を日常から闇戦国へ引きずっていき、地獄のような苦しみを味あわせた男。
 おかげで今は高耶は凶悪犯なみの全国手配になってしまっている。
 その余波は美弥にまで及んでいて。
 そう、直江さえ現れなければ、今頃彼も自分も松本で、美弥と一緒に普通に暮らしているはずだったのだ。
 譲をつつむぎらぎらしいオーラから身を庇いながら、高坂はその禍禍しい仏の化身をうっとりと見つめた。
(貴様が描いているのはただの夢だ)
 弥勒よ。貴様の正体は、すべてを飲み込む破壊の衝動。
 高坂は、紅蓮の炎を背負いながら物思いに沈む譲の横顔に目を細める。
 おそらく、譲は直江のように、高耶と常に共に戦いたいと何度も願ったろう。
 それが弥勒の覚醒への鍵になったのは間違いない。
 良くも悪くも弥勒の『閂』であった高耶の存在が、それあるがゆえに『閂』の封じるものを覚醒させた。
 覚醒したからには、景虎自身も喰われる可能性がある。
 慎重にせねば、弥勒は諸刃の剣だ。

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